孤独に耐えられない

孤独について

「寂しい」「ひとりで不安だ」
そんな孤独な気持ちに襲われるときはありませんか?

だからと言って、人と話をしても、理解してもらえないときがあります。

そして結局、話が合わないために、また寂しい気持ちになってしまう。

孤独な気持ちを乗り越えて、幸せになる方法はないのでしょうか?

1つの答えとして、ショーペンハウアーの言葉があります。(著書引用)

幸福の基本は自分の外に何ものも期待せず、自分のうちにあるもので楽しむことである」。いっさいがっさい「自分自身だけをあてにしてきた人間、自分にとって自分自身が一切合切でありうる人間が最も幸せだと結論することができる。

孤独にどう対応すれば良いのか?
小川仁志先生著書の「悩みを自分に問いかけ、思考すれば、すべて解決する」よりヒントをもらいましょう。

孤独で不安がおさまらない

  • 昔は友だちもいたけれど、最近人が離れていったように感じる。
  • きょうも誰からも連絡がなかったし、連絡したところで他人には他人の生活があるし、
  • テレビをつけてもスマホをいじっても、気休めにしかならない。
  • もう誰も、私のことを必要としていないのだろうか?

夜が静かだと、世界にはもう自分ひとりしかいなくなったような気がする。 生存を確認してほしくて、思わずだれかに連絡をとりたくなって、思いとどまる。 自分がこのまま死んでも、誰も気がつかないのではないだろうか・・・。

生涯未婚率が高まり、熟年離婚が増加し、孤独死への不安も深刻化する日本。独身者を中心に、生涯未婚率が高まり、熟年離婚が増加し、孤独死への不安も深刻化する日本。

独身者を中心に、「孤独のつらさ」は身近な悩みとして、多くの人が痛感するところとなっています。 この問題にひとつの答えを示しているのは、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーです。

ショーペンハウアーはいきなりこう切り出します。

「孤独に耐えられない、寂しいからといって、他人と一緒にいたってろくなことはない」「幸福について、第5章)

ショーペンハウアーは「ペシミズム (厭世) 哲学」の代表的存在として知られています。ペシミズム(厭世主義)とは、世界や歴史に(ヘーゲルのいうような意味や目的などないとする考えかたです。自分の子孫を残そうという遺伝子のヴィークル(乗りもの)としての個々の生きものの、ただ「存在したい」という、生への盲目的な意志と欲望だけがあるのであり、それぞれの欲望が愚かにもつれ合い、カオス状態にひしめき合って、永遠に無益な争いを繰り返すだけだという。

であるからこの世は幸福になることも、満たされることもない、むなしい世界であると見て、そこに肯定的・積極的な価値を認めない世界観のこと『意志と表象としての世界』)。

そんなショーペンハウアーにとって、人づきあいとは、他人に合わせるがゆえに「自分を捨てる」ことでした。

「社交界というものは人間が互いに順応しあい、抑制しあうことを要求する」
「強制ということが、およそ社交には切っても切れないつきものである」
「社交は犠牲を要求する。自己の4分の3を捨てなければならない」
(『幸福について』第5章)

とまで言うのです。

どれだけ親しい友人や恋人といても同じことで「友情とか愛とか夫婦関係が、人と人をいかにも密接に結びつけてはいるが」、「完全な融和はできない」と言います。
なぜか。人と一緒にいても、「個性や気分の相違のために、必ず不調和が生じるから」。『幸福について』第5章)

どれだけ寂しくて、 人恋しくて、話し相手が欲しいからといって、いざ会ったり電話で話してみたりすると、自分と相手のその時の気分や状況や興味がうまく噛み合わないことがあります。

それはやはり、他人だからです。

自分が本当に興味あるところと、相手のそれとが折り合わないために、結局相手に合わせることになったり、気を使ったりすることになる。結果、深い話ができず、お互いが共感し合える最大公約数的なところまで、会話のレベルを落とさなければならなくなる。

それは本来の自分らしさを犠牲にしていることにはならないか?

そこまでして他人と一緒にいたいのか? それでほんとうに、孤独をまぎらわせていることになっているのか?

ショーペンハウアーは人間には生来、「寂しがり屋」といわれるような、「他人と一緒にいたい本能や衝動」がそなわっていることは認めています。

それでも、その期待が裏切られることは経験上誰もが知っているのだから、そんな衝動は、適切にコントロールした方が賢いのではないかというのです。

「われわれの不快はすべて独りでいることができないということから起こっている」
「われわれの苦悩のほとんどぜんぶが社交界から生ずるものである」(同)

と。

それでも、人間は群れたがる。孤独をいやがり、自分を捨ててまで社交に向かう「群居本能」を避けがたく抱えている。

どうしてかというと「自分がないから」。
「自分の内面が貧困だから」。
「断片的な中身しかもた ないから」。
ショーペンハウアーはばっさりと切り捨てます。

人間が孤独をつらいと感じる理由は「人間の内面的な空虚さと貧弱さ」ゆえであり、「自己の内面の空虚と単調から生じた社交の欲求が、人間を集まらせる」(同)のだと。

ヴォルテール(Pl6s[6])が「この地上には口をきくだけの値打ちもないような人たちが、うようよしている。」といったように、さまざまな知識人の「人ぎらい」 発言を引用しながら、ショーペンハウアーは「群れることで自分の内面の貧困さをごまかす」 社交好きを非難する姿勢を隠しません。「群れる連中」への侮蔑が言葉の底に流れています。さすがは俗世間に背を向ける厭世哲学者だけあります。

というのも、それには背景がありました。ショーペンハウアーは19世紀ドイツでベルリン大学に職を得たものの、当時の同僚のスター教員ヘーゲル(R171)の人気に負け、大学を去ったのち在野で活動し、後半生は隠棲しながら執筆に集中した人生だったのでした。

そうした来歴もあってか、人々が集まるパーティやサロン的な文化に対して斜に構えた目線をもちます。

「くだらぬ人間は皆、気の毒なくらいに社交好きだ」

「優れた人たちがこういう一般の人間と交際したとして、いったい何の享楽が得られようぞ」 『幸福について』第5章)

「優れた人たちがこういう一般の人間と交際したとして、いったい何の享楽が得られようぞ」 『幸福について』第5章)

とまで罵倒してみせます。この隠遁哲学者には過度に人間ぎらいの面があることは否めません。

しかし、彼が尊敬するアリストテレスも「幸福は自己に満足する人のものである」といっているように、ここにはまぎれもない、ひとつの真実があります(※1)。

ショーペンハウアーはアリストテレスの言葉に続けてこういいます。

「幸福の基本は自分の外に何ものも期待せず、自分のうちにあるもので楽しむことである」。いっさいがっさい「自分自身だけをあてにしてきた人間、自分にとって自分自身が一切合切でありうる人間が最も幸せだと結論することができる」。(同)

なぜなら。

「人間は誰でも最も完全に融和できるのは、自分自身を相手にしたときだけだから」
「気持ちの完全な平静、貴重なこの地上の財宝は、孤独のうち、徹底的な隠遁のうちにのみ求めることができる。 […] その人間の自我がすぐれた豊かな自我であれば、おそらくこの 貧しい地上において求められる、最も幸福な状態を享受する」(同)

と、きっぱりとした表現を用いて、孤独のすばらしさを讃えてみせるのです。

であるなら、さびしさにかられてむやみに他人と寄り添いたがる世間の人たちをよそに、群れたい衝動をコントロールし、自分の内面を深く耕すことをよしとすべきではないでしょうか。自分の持てる興味を遊ばせながら孤独を愉しむ。好きなものをとことん掘り下げる。自分一人でしかできない仕事に没頭することで、私たちは孤独の時間を有意義に過ごすことができます。その時間、いわば根暗なたのしみが、自分を豊かにするのです。

ショーペンハウアーによれば、
「早くから孤独になじみ、孤独を愛するところまできた人は、金鉱を手に入れたようなもの」『幸福について』第5章)なのです。

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