人生の意味を考える

人生について

自分はなぜ生きているんだろう?と、考えたことはありませんか?

どの本を読んでも、これだと思える答えはありませんが、生きるヒントは散りばめられています。

今回は「仏教」の観点から「人生の意味」のヒントをもらいました。
それは

ガネーシャ
ガネーシャ

“自分が大切にしたいもの”をはっきり決めれば、それ以外のものは、ただやり過ごせばいいだけ

多くの書籍を出されている南 直哉さんの「禅僧が教える心がラクになる生き方」の中から、人生の意味を考えてみましょう。

「生きがい」や「やりがい」を つくる必要はまったくない

生きがい探しをしたくなるのは、現状に不満や不安があるとき

「せっかく生まれてきたのだから、意味のある人生を送りたい」と言う人がいますが、「せっかく」はなく、この世に「たまたま」生まれてきただけです。

もちろん、「やりがいのある仕事」や「生きがいに満ちた毎日」がある人は、その日々を謳歌していただければいいでしょう。

しかし
「生きがいが感じられない」と、悩むほどの問題ではありません。そんなものがなくても十分生きていけます。

・「そうは言っても、社会とかかわりながら、充実した毎日を送りたいのです」
・「誰かの役に立っている実感を得たいじゃないですか」
・「自分の使命を見つけて、人の役に立たなきゃと思って」

そう言う方には、具体的に「誰」の役に立ちたいかを尋ねます。
すると「誰と言われても・・・・・」と、ほとんどの方が口ごもるのです。

ある男性に
奥さんの役に立つことをしたらいかがですか?」と言ってみました。

すると「いや、それはちょっと」と苦笑いされました。

「奥さんだって人の内でしょうに、おかしな人だ」と思ったものです。

「人の役に立ちたい」と思ったときは
自分は「誰」を大事にしたいのかを考えればいい、ごく簡単な話です。

現実的に言えば
大切にしなければならないのは、自分と縁の深い人間、身近にいる人間でしょう。

多くの人は、具体的に問題を考えているのではありません。

「社会的に意味のあることをして生きがいのある人生を送れば、この重苦しい気分が軽くなるはず」と、なんとなく思っているだけです。

悩んでいる方は、現状に不満や問題を抱えていて、それを直視できていない場合が多いようです。

しかもそれは、感情を抜きにして、問題を解きほぐせば、即座に打開策が見つかりそうなことです。

例えば
・人間関係が希薄なのであれば、自分から人の中に出かけて行く
・それが苦手なら、身近な人間関係を見直してみる

人生で不具合を起こしているところを調整すれば、わざわざ「生きがい」を探す必要はないのです。

それでも、生きがいや、やりがいが必要なら、散歩している人を見てください。

・「夢」や「生きがい」を糧に生きているように見えますか?
・誰かの役に立たなければ、「生きている価値がない」と思っているように見えますか?

テーマを決め それに賭けて生きてみる

“自分が大切にしたいもの”をはっきり決めれば、それ以外のものは、ただやり過ごせばいいだけ

そうすると、人生がシンプルになり、生きやすくなります。

「私の生きがいは妻です」と言い切る中年男性に会いました。

大企業勤務の彼は、妻が引っ越したくないと言うから転勤の話を断ったそうです。

彼は「昇進したが、出世したわけではありません。転勤を断ったのが響いたのかも」と笑って、悔やんでいる様子もありません。

彼にとって、昇進と奥さんを比べるまでもなかったのでしょう。

自分が大切にしたいものがはっきりしていて、
明確なテーマがあるから、
人生の岐路での選択に迷いがない。

迷ったとしても、最終的には自分で決められる。こういう人は強いと思います。

あなたが大事にしたいテーマはなんですか

テーマが定まっていれば、
人生の選択を迫られたとき、
ぶれない指針となります。

その人が生きるうえでの精神的な強さ、タフさにつながります。

「でも、自分以外を大事にするのは相手に対する依存ではないか」という意見もあります。

しかし、たとえ依存であっても、それ自体に問題はありません。

これは、単なる「仲のいい夫婦」の話です。
奥さんを大事にすることで生活が混乱したり、誰かが困ったりしていないでしょう。

これが「依存症」となると、その関係に病的な要素が入り、お互いにダメージを与える状態に陥ります。

もちろん、将来のことは誰にもわかりません。

自分の人生で大切だと思っていると相手と不仲になったり、死別の時期が訪れたりすることは当然あります。そうすれば、相手が大事だったぶん、落ちこんだり悲嘆にくれたりするでしょう。

しかし、それを怖れていては誰とも関係を結べません。

そのときどうするかは
その事態が訪れたときに考えればいい話です。

いつかは自分の大切にしたいことや、テーマは変わるかもしれない、失うかもしれないという前提で考えるその覚悟で、相手とつき合えばいいのです。

  • 「テーマを生きる」とは、負けることもあると承知のうえで、自分の決めたことに賭けていくこと
  • 「自分はこれに賭ける」といったん決めれば、それ以外のものはやり過ごせばいい話

迷いから解き放たれ、生きやすくなるのは間違いありません。

「生きているのも悪くないな」 と思える人生を生きる

  • 自分のためではなく「人のため」と考える。
  • やりたいことではなく「やるべきこと」をする。
  • そこを目指せば「生きていてよかったな」と思える日々が重なっていくはず。

禅では「日々是好日」と言います。

これは、毎日が「好日」ですから「いい日」も「悪い日」もないと言っているのです。

要するに、毎日がよい日なら、もはや良いも悪いもないでしょう。

また、この前文には、こんな言葉があります。

「十五日以前は、即ち問わず。十五日以降は即ち如何」

「十五日以前のことは問わないが、十五日以降のことはどうだ?」という意味です。

この「以前」と「以後」を人生の前半と後半と解釈することもできますし、「人間の人生には、価値のあるときとないときがあるか?」と問うていると、捉えることもできます。

この問いをした老師は、弟子の答えを待たず、自ら「日々是好日」と答えました。仏教徒にとっては、前も後もない、良いも悪いもない、ただ修行の日があるだけだ。そう言いたかったのでしょう。

一生をふりかえって「いい人生」だったか「悪い人生」だったかなどは関係ありません。

死に際して
「まあ、そこそこの人生だったかな」
「いいことも悪いこともあったが、とりあえず生きたな」と思えれば十分だと思います。

そんな死を迎えるためには
・「大切な自分」から降りて他人に自分を“開く”こと
・損得勘定から離れ、人の縁を結んでいくこと

大したことのない自分が、死ぬまで生きていかなければならないのは億劫なことです。しかし、生きているからには、その億劫なことをやるしかありません。

そして、自分をなんとか使いこなしていくには、これだと決めた道で、手間と暇をかけるしかないのです。

しかし
・多くの人が「取引」と「競争」の中で生き、疲れ切っているように思います。
・自分を高め、人に勝って得をし「役立つ自分」や「すごい自分」でいなければと思い込み、疲弊しているのです。

でもそんな人間には、正体不明の「死」が最初から組み込まれています。

人生には、死ぬこと以上の大仕事などありません。

そこに思い至ると、今あなたが苦労している取引や競争は、じつは、人間の存在が持つひとつの側面にすぎないとわかるでしょう。

自分を決定づけるのは、他者との関わりしかありません。

「自分のため」ではなく「人のため」と考える。

なんでも他人の言いなりになるのではありません。

他人と問題を共有して取り組む。
→それが「やるべきこと」になるのです。

「やりたいこと」ではなく「やるべきこと」をする。
→目指すのはそこです。

完璧でなくてもかまいません。また「我慢して、いい人になれ」「自分を犠牲にしろ」などといった話でもありません

「大切な自分」や「本当の自分」、「夢を叶えて生きる」といった妄想から降りて、他者とのかかわりの中で成立している自分の存在を見極めることが大事です。

そこを目指していけば「生きているのも悪くないな」「生きていてよかったな」と思える日々が重なっていくはずです


人生の道しるべになる言葉がたくさん詰まっています。生きる意味を考えたい方は、「禅僧が教える心がラクになる生き方」をオススメします。

目 次

一章 あなたが大切にしている「自分」とは何か
二章 「夢」や「希望」という重荷を下ろす
三章 感情に振りまわされないために
四章 死に向かって今日を生きる

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